ライブで乳首を見せびらかしたい
ライブで乳首を見せびらかしたい。
※本業はシンガーソングライターです。ソウルフルな感じのピアノ弾き語りをしております。
露出癖ではない。
ワハハ本舗でもない。
むしろ、反射的に「露出癖?」「ワハハ本舗?」と思ったあなた、あなたにこそ、この思いを届けたい。
私は、強固な意志でもって、私の乳首を見せびらかしたいのだから。
私が乳首を見せびらかしたくなるまで
私が心から尊敬し、愛してやまない、SCOOBIE DOという四人組ファンクロックバンドがいる。
(http://skream.jp/interview/2017/10/scoobie_do.phpより)
彼らはやばい。最高である。
彼らのなにがやばくて最高かと言うのを真剣に綴ると三日くらいかかるので、断腸の思いでひとつに絞る。
ライブパフォーマンスである。
素晴らしく盤石な演奏技術を存分に振りまきながら、踊る、暴れる、魅せる、そして、観客を煽りに煽る!
そのさまが、クールでアツくて、豪快で繊細で、硬派でエロくて、たまらなくかっこいい。
というただのファンのダイレクトマーケティングはさておき、ひとまず次の動画の2:33〜2:45あたりをご覧いただきたい。
(このライブ映像は数ある最高のライブ映像の中でも特に最高のものなので、本当は最初から最後までご覧いただきたい。もっと言うなら、生のライブを最初から最後までご覧いただきたい。)
(※『FUJI ROCK FESTIVAL2015』より)
「真夜中のダンスホール」、ライブでは定番中の定番曲である。
忙しい方のために、その約十秒の間に起こることを簡単にご説明しよう。
「けものだもの 今はむきだしのまま」とのフレーズを高らかに歌い上げるVo.コヤマシュウ氏が、第四ボタンまで※シャツを広げ、自身の乳首を誇らしげに露出させるのだ。
(※確認のためライブ鑑賞時に何度か注視したが、第四ボタンのときが比較的多い。)
2016年11月17日、東京は渋谷クラブクワトロにおいて、生まれてはじめてコヤマ氏の乳首を目の当たりにした私は、確信した。
「これだ」と。
これだ。
私がやりたかったのは、こういうのだ。
媚びでもシモでも下品なギャグでもない、人々が思わず歓声を上げてしまうような、自信たっぷりの圧倒的セクシーさに溢れたパフォーマンス。
やりたい。私も乳首を見せびらかして、人々から喝采を浴びたい。
そして妄想だけが無限に膨らむ。
両乳の乳輪部分に星型の銀紙を貼っておいて、曲の盛り上がりに合わせて服をはだけてゆく。
そして曲のクライマックス、一番盛り上がるそのときに、最高のシャウトと共に、一気に銀紙を引き剥がす!
スポットライトに煌々と照らされる両乳首と、それによって一層湧き上がるオーディエンス。
喝采を浴びるコヤマ氏を最前列で見つめながら、私は決意した。
「乳首、出していこう」と。
乳首を見せびらかす際の問題点
しかし、どれだけやりたいと思ったところで、実際に私がライブで乳首を見せびらかすのは非常に困難であるらしい。
「らしい」と妙に頼りない書き方なのは、「ライブで乳首出して会場をワーッて沸かせたいんだよね」と何となしに母に持ちかけた際、全力でドン引かれるまで、自身の乳首の露出にそんなに問題があるということに、まったく気づいていなかったからである。
ちなみに言及しておくと、私は幼い頃から、肌を露出させることについての羞恥心がまったくない。
更衣室に入るのを面倒がって平気で廊下で着替えるし、スカートを履き忘れてコンビニまで行ったこともあるし、法さえ許すならば暑い日は出来れば何も着たくない。裸でいい。実際、室内では年中ほとんど裸みたいな格好をしている。
無論、見たくない人に無理矢理自身の裸体を見せつけたいとは一言も言っていない。それは単なる性犯罪だ。
ただ、乳首というだけでそんなに禁忌みたいな扱いをされている状況が理解できない。
「見せたい人は見せたいときに見せる。(もちろん、見たくない/今見たい気分じゃない人にむやみに見せたりしない。またもちろん、見せたくないときには見せなくてよい。)
見せたくない人は見せたくないから見せない。
見たい/別に見ても嫌じゃない人は見せたい人のを見る。
見たくない人は見たくないので見る筋合いはない。」
そのルールさえ守ることができているのならば、私が人前で乳首を晒すことにさして問題があるとは思えない。
必死でやめなさいと言う母に、私は上記のような意見を延々と訴えた。(クソめんどくさい娘)
私の大演説を聞き遂げた母は、果たして、こう言ったのだった。
「いや、あんた一応女の子だから……」
女の乳首というだけで
めんどくさい娘、ついに爆発した。
最初に言っておくが、母はなにも悪くない。
ここからは私の単なる演説である。聞いてください。
女の乳首が、なんなのですか!?!!!!??????!??
若い女の乳首が、一体なんだというのですか!!???????!!!!!!!!
確かに私は24歳で、女の体を持つ者としてこの世に生きている。
生きてはいるが。
そもそも、女の乳首というだけでなぜ隠さなければいけないことになっているのだろうか。いや確かにあまり丈夫な部位ではないから、防御のためになにかしらプロテクトするものが必要だとは思うけれども、それは男性でも同じではないか?
人間ならば皆、いやまだ足りない、哺乳類の乳首ならば同じではないか?
私は、私の体に「若い女の乳首」が備わっていることが煩わしい。
正確に言うと、本来「母乳を出す」程度の機能しかない人体の一器官に、外界からさまざまな意味づけがされてしまっていることが、とても煩わしい。
私だって、やりたいのだ。
野外バーベキューのときに「あちいな〜!」って言いながらその辺にTシャツを脱ぎ捨ててみたい。もちろんTシャツの下には何も着ていない。
レジャーシートの上にラッシュガードを脱ぎ捨てて、海パン一丁で真夏の浜辺を海に向かって駆けて行きたい。(とにかく夏になにかを脱ぎ捨てたがりがち)
「若い女の体」を持つ者は、こういうことができない。
いや、別にやろうと思えばできるのだけど、「はしたない」「みっともない」「欲求不満なの?」「露出狂なの?」等々さまざまな批判や疑問が矢継ぎ早に飛んでくることが用意に想像できすぎて、やらないという選択をせざるを得ない。
もちろん私とて妙齢なので、乳首を「母乳を出す」以外の(※エロ的な)用途で使うときもある。
あるけども、「私の今の乳首はエロいものとする」と脳が判断を下したときだけ乳首がエロいものになるのであって、「エロい乳首」がもともと体に付いているわけではない。
私は、私の乳首を、「赤ちゃんに母乳をあげるためのもの」「エロいもの」「隠すべきもの」などという外付けの意味から解き放ちたい。
我が乳首よ、我が手中に。
テイク・バック・ザ・乳首……「乳首をとりもどせ!!」
乳首パフォーマンスに焦がれる真の理由
そこでやっと気がついた。
私は、コヤマ氏の乳首パフォーマンスになぜあれほどまで惹きつけられたのか。
コヤマ氏は、自分の乳首をパーフェクトに自身の支配下に置いている。
単に人体の一器官として扱うも、セクシーな舞台演出の道具として扱うも自由自在。
そして、見せるも見せぬもコヤマ氏の采配次第。
コヤマ氏の乳首は、所有者たるコヤマ氏だけのものなのだ。
「俺のからだは俺のものである」。
コヤマ氏から堂々と放たれるそのメッセージがあまりにも眩しく、そしてあまりにも羨ましかった。
「私のからだは私のものである」。
言わずもがなの当然のことなのだが、私の発するメッセージはコヤマ氏のそれと比べて、どうしても弱い。弱いのだ。そのことが悔しい。
ならば私は考えたい。
我が手に乳首をとりもどす方法……つまり、女が乳首を出したくらいでガタガタ言われないような世界を少しずつでも作っていく方法を。
まずは、「私のからだは私のものである」をいつも胸に留めておくこと。主張する機会があればきちんと声に出して主張しておくこと。自分の好きな格好をするのをためらわないこと。
演者としては、日々のステージを媚びず・おもねらず・堂々とこなしていくこと。弾けたパフォーマンスを「面白いね」と思ってくれる人たちが増えるまで諦めないこと。もちろん地道に実力とパフォーマンスに磨きをかけていくこと。
これらがもしなんとか上手いこといったあかつきには、無謀オブ無謀な畏れ多い夢ではあるが、いつかスクービードゥーの皆様と同じステージに立ち、コヤマ氏と並んで乳首を見せびらかして喝采を浴びたいと思う。
(言うだけならタダ……!)
なのでどうか皆様、私がいつかライブで乳首をバーンと出した際には、是非ドン引きせずに「フゥーーーーーーーーーーー!!」と声をあげてくだされば幸いです。
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11/7(水)21:56 追記:
http://www.scoobie-do.com/news/13072.php
本日11/7より始まるSCOOBIE DOツアー「スクービーとスクービー」、ひとまず現時点で本日の千葉、そして名古屋・東京の合わせて三公演行くことが決定しています。
千葉ルックを愛し!!!!!!!!!千葉ルックに愛されました!!!!!!!!!!!!!!!!!サイコー!!!!!!!!!!!!
すごいカフェオレを飲んでいる
文章を書くのはとっても好きなのでもっと頻繁にブログを更新したいなあとは思うのだけど、「それなりにちゃんとした記事を皆様にお届けしなければ」という使命感が強すぎて、書けども書けども完成しない。
下書き欄にひたすら未完成の記事ばっかり溜まっていって、便秘気味で仕方ない。
お金もらって論文書くわけじゃないんだし、もっと気楽に書いたものを気楽に公開していきたいなあと思って、今日は日記みたいなものを書いてみるつもりでいます。
ここのところ所用でずっとパソコンに向かっていて、目の疲れと肩こりがひどい。
あとタイトルにもあるように、すごいカフェオレを飲んでいる。
ちなみに多分伝わってると思うけど「"すごいカフェオレ"を飲んでいる」ではなくて、「すごい飲んでいる、カフェオレを」である。倒置法。
こう、パソコンに向かってなにか考えながらカタカタやるときはなにかお供の飲み物が欲しくなるのだ。
ちょっと前までは500mlパックのミルクコーヒーを買ってはちまちま飲んでいたのだが、最近はそれじゃ全然物足りなくなってきてしまって、無糖のブラックコーヒー1ℓとおいしい牛乳500mlを買って、自分でいちばんおいしいと思う調合のカフェオレをひたすら飲んでいる。
ので、最近はすごいカフェオレを飲んでいます。
牛乳が意外と胃にたまるので、あんまりお腹が空かない。
あとは多分カフェインの摂取量がやばいことになっている気がするので、ちょっと量は調節しながらのほうがいいかもしれない。
でもなんか、コーヒーをすすりながらパソコンに向かってものを書くって、すごい仕事できるひとみたいな感じがしてどうしても楽しい。
しばし続く習慣になると思う。
今のところいちばんおいしい割合は、コーヒー7:牛乳3くらい。
これは今後も探っていきたい。
今日はそんな感じ。
皆様、どうぞよい夜を。
椎名林檎に飲まれないやつらに飲まれる(後編)
椎名林檎トリビュートアルバム『アダムとイブの林檎』全曲好き勝手レビュー、後編です。
前編はこちらからどうぞ。
今までもかなりの熱量ではあったと思うのですが、ここから特に怒涛の大好きゾーンが始まります。
どうぞお付き合いください。
8. すべりだい/三浦大知
男性が女性目線の歌を歌って「あたし」という一人称を発するという現象に対して、昔から並々ならぬフェティッシュな感情を抱いているのだけれど、このカバーはそれの真骨頂というかんじ。
大知……あなた……最高にイイ女よ……
原曲の「丸サディ」ちっくなシャッフルジャズが、リズムも手触りもむちゃくちゃクールで都会的なR&Bに様変わりしていて、体が勝手に揺れてしまう。椎名林檎感と三浦大知感の混ざり具合が本当に絶妙。
一番サビで熱量をぐっと落としておいて、間奏で、四分音符からお洒落にずれたリフを存分に使ってアゲアゲにしてくるのがたいへんうますぎる。あと、二番サビ終わりの「最後の遊びへ導いていた~ああ~~ア、ア、ア、」の「ア、ア、ア、」って、そのボーカルいじりは使いどころを心得すぎ。素晴らしい。
(聞いてない人はなんのこっちゃというかんじだと思いますが、本当に文字に起こすとそうとしか書けないのです。ぜひ聞いてください。)
あとは、なにより曲の締め方。
最後の歌詞「記憶が薄れるのを待っている」のあと、まだまだ言いたいことがいっぱいあるはずなのに、原曲ではそれを言葉にせずにスキャットで表現していて、そちらももちろん大好きなんだけど、三浦大知版ではそこでフッと消えるように曲自体が終わってしまう……身悶え。
9. 本能/RHYMESTER
「デュッヂュクヂュクあたしの衝動を突き動かしてよお~~」FOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO~~~~~~~~~~!!!!!!
もうだめ。我が敬愛するRHYMESTERが「本能」。あの「本能」。しかもMUMMY-D a.k.a. Dさんが監修だというじゃないか。こんなんじゃ命がいくつあっても足りない。
もう前曲「すべりだい」からドキドキしっぱなしで、ついに「本能」がはじまると、のっけから先に書いたような歪んだスクラッチが颯爽と響いて、私は死んでしまった。
「本能」の代名詞とも言うべきあのシャッフルのリズムをどう料理してくるのかがいちばん気になっていたんだけれど、まさかこのへヴィーーーーでダーーティーーーーーーーな低重心が来ると思わなかった。ずるい。ほんと。
このトリビュートのために書き下ろされたであろうDさんと宇多丸さんのリリックも最高。
椎名林檎の歌った「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」に対してのDさんの回答が百点満点で、「こうしてリズムの上でGreedyなLady誑かすためさ」だそうです。
そんなことが聞きたかったんじゃない、もっとまじめに話をしたいの、そんなふうにはぐらかさないでよ、ねえ、そうやって私のこと弄ぶつもりなんでしょういつも肝心なことには答えてくれないのあなたって、いいえ、でも嫌いになんてなれない……Dさんの回答が満点過ぎて私に謎の色っぽい女まで憑依する始末。
宇多丸さんのリリックは相変わらず恐ろしく神経質なまでに手堅くて、こちらも最高。
「全部どうでも良さげなキミの顔に射す月の満ち欠け」がいちばんグッとくる。「気まぐれで虚無主義で色好みでどうしようもない彼女、それでもどうしても惹かれてしまうその横顔ーー」的なアレを見事に表した素晴らしい言葉だと思います。
その視線があくまで優しくて誠実なかんじがするのは宇多丸さんのお人柄なのかしら。
素晴らしくエロい楽曲が素晴らしくエロいおじさまたちの手によって素晴らしくエロく料理された結果、素晴らしくエロいを三乗した楽曲が生み出されてしまった。
こいつはつまり最to the高!
10. 罪と罰/AI
「罪と罰」といえば、「水飲んで……飴舐めて……喉にネギ巻いて今すぐ寝て……」レベルにしゃがれた椎名林檎の声が代名詞だと思うので、AIだってもちろん超かっけーハスキーボイスなのだけど、そのあたりをどのように着地させてくるのかが気になるところだった。
結果から言うと、その懸念にはすぐさま決着がついた。冒頭から「Oh〜Oh〜Oh〜!」と五〜六人のAIが一気になだれ込んでくる力強いコーラスワークですべてを悟る。
なるほどゴスペル的なソウルフル方面に振り切れたのか、と大いに納得。
その後は「そりゃあそうだ、このリズムのこのメロディの楽曲は本来このような歌声によってこのように歌われるべきだ」と、終始ソウルの原点に回帰させられっぱなし。
そしてクライマックス、数拍のブレイクを挟んでやってくる十数人のAIによる超壮大な「YEAH〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」に完敗してしまった。
全然関係ないんだけど、「AIのカバーした『罪と罰』」の意図で「あいのつみとばつ」と発音すると、どうしても「愛の罪と罰」に聞こえて、反射的に「人妻ものの官能小説かな?」と思っちゃうのをやめられない。
陽水~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
女学生的であることを最大の売りとして稼働させられているアイドルグループがおしなべて嫌いである。
(未成年&学生搾取への肯定が透けて見えるため)
私立恵比寿中学については、唯一「キングオブ学芸会と呼ばれているらしい」ということだけ知っていて、その呼称はものすごく好きだぞと思いつつ、でもやっぱり女子中学生を彷彿とさせるグループ名からもう気に入らないので、出来るだけ視界に入らないようにしようと思い、触れてもこなかった。
ただ、このアレンジについては本当に最高としか言いようがなかった。よく知らずに悪く言ってきた今までの自分を恥じました。ごめんなさい。
「群青日和」「閃光少女」「NIPPON」的なメジャーキー&エイトビートロックな原曲が、超適切なアレンジとエビ中(呼び方合ってる?)ちゃんたちの歌声によって、ハイテンションながら爽やかな立派なアイドルソングに様変わりしている。
原曲でも大好きだった「今ならば子供にも大人にもなれる」「今だけは男にも女にもならない」という歌詞が、若い女の子アイドルの口から高らかに聞こえてくる幸福感ったらない。椎名林檎が歌うのも勿論すばらしいけども、これはまた全然意味合いが違う。
「う〜〜〜〜〜⤴︎!うー!はー!うー!はー!」のあたりとか、もうノリノリにならないほうが無理じゃないか?まんまと道連れされちゃって悔しい。
「うら若き女の子が女子学生的であることを強調してアイドルとして売り出される問題」については、きちんと考えようとするとそれだけで一万字くらいになってしまうと思うのでまたの機会に。
13. NIPPON/LiSA
あ、あ、あ、アニソンに聞こえる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!
「LiSAの声で歌われるものはアニメソングである」と我々に刻み込まれているせいなのか?
一回そう思ってからはもうアニソンにしか聞こえないし、聞いている最中もソードアートオンラインの映像が脳内に流れて仕方ない。
あと、原曲では冒頭にビープ音というかクラクションの音が鳴るけれど、こちらのバージョンではヒップホップのライブでDJが場を沸かすときにボタン押して鳴らすやつ(伝わってますでしょうか、ピウーー⤵︎ンみたいなサウンドエフェクトのことです)に変わっているのがとってもうまい。
14. ありきたりな女/松たか子
椎名林檎の声は先端が尖っていて鋭利な刃物みたいだけれど、その例えで言うならば、松たか子の声は鈍器だ。
私は鉛でできた巨大な円柱をイメージしている。お寺の鐘つき棒のようにこちらに迫ってきて、ひどい打撲傷を残していく。
ナイフ状ではないからその場で血が流れることはないが、後々まで青あざになってなかなか消えない。
松たか子の歌声がよすぎてポエムを書いてしまった。とにかく松たか子の歌声の迫力がものすごい。
やはり本業が女優さんだからか、歌ってもポップスというよりはミュージカルのナンバーみたいに聞こえる。
というか、私は松たか子の歌声を聞くとダイレクトにアナ雪のエルサを想起してしまうので、エルサに自己投影しすぎて人生が狂いかけた身としては、エルサが「ありきたりな女」を歌い上げている映像が鮮やかに思い浮かんで、どうしても目頭が熱くなる。
「どれほど強く悔もうとも、どれほど深く嘆こうとも帰れやしない」ってエルサの声が歌うの、やばくないですか?
松たか子の歌声について補足。
終始すごいけれど、特に「グーーッバーーーーーーーーイ」の「バーーーーーーーーイ」が本当にやばい。
こんなにまっすぐな母音「あ」のハイトーン&ロングトーンを聞ける機会はそうそうないと思う。発声法も正しすぎるくらい正しい。
素晴らしいの一言です。
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こうして息も絶え絶えで14曲を聴ききって、ようやく一息つこうと思った途端、アルバムリピート機能で一曲目の再生が始まってしまい、マサムネさんの「あの日飛び出した〜〜」が耳に飛び込んできて、私は再びノックアウトされてしまうのでした。
まったく罪深い。
罪深いぞ、アダムとイヴの林檎。
椎名林檎に飲まれないやつらに飲まれる(前編)
五月の終わりに、下記のようなツイートをした。
「アダムとイヴの林檎」を聴き続けています。椎名林檎の楽曲をカバーするときの最強最大の問題点「リスペクトの余り椎名林檎そのものになってしまう」を、見事に鮮やかにクリアし、これ以上ないほどに完全に自分のものにしてしまった素晴らしい作品ばかりです、ため息が出ちゃう#アダムとイヴの林檎
— 夢井みづき@7/25水道橋words (@yumemi_nn) 2018年5月28日
「正しい街」のど初っ端の一音から「ありきたりな女」の最後の一音まで、最高でない音が存在しない!!!!!!!
— 夢井みづき@7/25水道橋words (@yumemi_nn) 2018年5月28日
RHYMESTERが「本能」をカバーすると聞いた時点で一億点が決定していたのに、なんで揃いも揃ってこんなにこんなに全てが素晴らしいの…………?
一曲ずつみっちりレビューを書きたい
言いたいことはこれらのツイートで大体全部言っちゃったのだけれど、あれからも懲りずに、椎名林檎トリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』を聴き続けている。
良い、めっちゃ良い。何周聴いても聴いても良すぎる。
良すぎるので、改めて細かな感想や気づいたことなどを書き留めておきたいな、と思った。なので書きます。
ちなみに好き勝手に書きつづった結果、予定をはるかにこえて超長くなってしまったので、前後編に分けました。
お付き合いくださる奇特な方は是非後編もどうぞ。
また、そんなことのないように注意を払ってはおりますが、間違った情報だとか、おかしな理解だとか、見受けられた場合はどうかその旨ご教授ください。
お手柔らかにどうぞ。
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1. 正しい街/The ウラシマ's
「あの日飛び出した~」の時点で、既に観客総立ち拍手喝采スタンディングオベーションというかんじで、勘弁してほしい。脳内がブリテンズゴットタレント。
ウラシマズについては、私は本当にスピッツにもミスチルにもアジカンにも雨パレにも詳しくないので、下手になにか言うと色んな人の地雷原を疾走してしまいそうで怖い。怖いので出来ればあんまり長いこと書きたくない。書きたくないけれど、書きたい。
これ、原曲より好きかもしれない。
(これは、もし私がリアルタイムで『無罪モラトリアム』に触れていて、CDをかけた途端に「正しい街」が来る衝撃を体感していたら違ったと思う。)
マサムネさんが「此の街と君が正しかったのにね」を、完全に「此の街と君が正しかったのにな」と歌っているのでエモさが爆発して死にます。
このカバーバージョンを聴いてから「正しい街」の脳内再生が完全に書き換えられて、ウラシマズ版のキーで流れるようになってしまった。本当に悔しい。
よくも、よくもこんなことしてくれたな。
しかし、「不愉快(ai)な笑みを向け長い(ai)沈黙の後態(ai)度を更に悪くしたら/冷たい(ai)アスファルトに額(ai)を擦らせて期待(ai)はずれのあたしを攻めた」の執拗なまでのaiの韻のたたみかけとそれが生み出すリズム感、本当に恐ろしいですね。
これを20歳にもならない人間が書いたのだと思うと、おちおち生きてらんないです。肩の力が抜ける。
まず以って、「宇多田ヒカルの丸ノ内サディスティック」という文字列のやばさがやばい。すげえやばい。
椎名林檎が「13組の音楽家による13の解釈について」で歌った「Letters」とか、宇多田ヒカルのご結婚記念にライブで歌った「Traveling」とかも相当やばかったのだけど、「宇多田ヒカルの丸ノ内サディスティック」はネームバリューとして本当に破壊力がやばい。(やばいって言いすぎてやばい。)
そんでドキドキしながら聞いてみると、「丸サディ」とは思えないしめやかさと繊細さにぶっ飛ぶ。そしてなにより、コード進行が全然「丸サディ」進行じゃなくて再びぶっ飛ぶ。「丸サディ」といえばあのコード進行が代名詞みたいなものなのに!
なんだこのただならぬ手触りの楽曲は……!?理解するのに時間がかかって何度も聴いてしまう。何度も聴くうちに虜になってしまう。なんだよ。
あと、二番で満を持して入ってくる小袋成彬さんの歌声にノックアウトされてしまった。お恥ずかしながら「ともだち」でしか存じ上げなかったのだが、本当に何者なのかしらこの方。
ハイトーンの歌い回しが丁寧で甘くて、耳がじんわり満たされる。いい。
あとは忘れちゃいけない、小袋さんのオクターブ下でサビを歌う宇多田ヒカルの低音の色っぽさもやばい。抱いて。
3. 幸福論/レキシ
冒頭の「コウフクロン。」でやられてしまった。これはずるくないか?
20歳くらいの椎名林檎がこの曲を歌うのと、レキシ(というか池田さん)が歌うのとで、「幸福論」の意味する範囲がまるっきり変わってしまうところがとてもいいなと思った。
「本当のしあわせを探したときに/愛し愛されたいと考えるようになりました」というのは、原曲ではおそらく「君」と「あたし」だけの世界の話であって、その排他的な「二人だけ感」が素敵なところだと思うのだが、レキシ版だと、なんかもっと世界平和とか人類愛みたいなものについて歌われているような気がする。池田さんの声のせいだろうか。
なぜかディスコ調になっているのもすごくいい。コードも「丸サディ」進行で、エモキラキラグル―ヴィー感がとっても楽しい。
4. シドと白昼夢/MIKA
MIKAって、あのMIKAでいいんですよね?「Lollipop」とか、アリアナのフィーチャリングの「Popular Song」とか、あのMIKAですよね?これも目を疑った。
原曲の「シドと白昼夢」が完全にかげもかたちもなくって潔すぎて笑ってしまった。冒頭から唐突なジムノペディ第1番だし。
椎名林檎の磁場にまったく飲まれないカバーって、こういうことを言うのかなあ。「え、元からこんなかんじの曲ですけど?」と言わんばかりの雰囲気の大幅方向転換。
突然MIKAに手を取られ、ヨーロッパの雨上がりの石畳に軽やかに連れ出される良アレンジ。
しかし、私がまったくフランス語が分からないのがすごく悔しかった。サビ途中の「トワ~エモア~」しか聞き取れない。翻訳するときの工夫とかもきっとたくさんあるだろうから、出来ればそこも含めて楽しみたい。フランス語詳しい方、ぜひご教授願います。
5. 茜さす帰路照らされど…/藤原さくら
またお恥ずかしながら藤原さくらについての事前知識が本当になかった。
唯一知っていたのは福山雅治と一緒にドラマに出てたということだけだし、そのドラマ『ラブソング』(これも今ググってやっと題名を知る始末)についても、放映してるときにチラッと見かけて「この子が憧れと好意を抱いてしまう相手役が福山雅治って、そりゃあ彼はとっても見目麗しいしギターも歌もお芝居もできるけど、ちょっと年がいき過ぎてないか?この子と福山雅治のラブストーリーってすこし犯罪じみてないか?」など、本筋とまったく関係ないことでヒヤヒヤしていたのみ。
正直申し上げます、舐めてました!!!!!!!!!このアレンジめちゃくちゃ好きです!!!!!とってもいいです!!!!!
リズムの刻み方が曲中で自由自在に変わっていくこのかんじが個人的にとっても好きだというのも多分にあるのだろうけど、それと藤原さくらの少し気怠いというか煙たいような声が入り混じって、原曲とはまた違うエモさを醸し出している。素敵です。
6. 都合のいい身体/田島貴男(ORIGINAL LOVE)
唯一『三文ゴシップ』からの選曲!!うれしい!!
にしても、「都合のいい身体を田島さんにお任せしよう」と決めたのはどこのどなたなのですか……どうしたらそんなアイデアが思いつくのですか……すっごくいいんですけど……
ディズニーランドBGM的キラキラ三拍子だった原曲が、さすが田島さんの手にかかるとすげえファンキーになっていて、歌詞の意味合いすらまた違って聞こえてくる。
(特になんの説明もなくコードの話が始まりますが、ご興味のない方はかっこの中身をまるまる読み飛ばしてください。
このアレンジを「ファンキー」だと感じる要因ってなにかしらと考えていたのだが、特に終盤のギターソロに入ったあたりからセブンスコードが多用されるからかなという結論に達した。
セブンスコードって、どこか滑稽さを感じさせるところが好き。セブンスコードが喋るとしたら多分「はいわたくしセブンスコードというわけでね、ブルージーですよね〜!ほーら!ブルージーですよお〜!」みたいな口調だと思う。
だから、悲しい曲の中では、その滑稽さで以って救いになってくれるときもあるし、逆に、その悲しみを更に増幅させる装置にもなるのが面白い。
しかし、この曲はそもそもひたすら「大事な日に限って体調が悪い。解せない。おうち帰る」みたいな滑稽なことしか言ってないので、そこにセブンスコードが大量に投入されたことによって、結果的に過剰におもしろおかしく聞こえる楽曲になっていてすごくよいなと思った。
以上です。)
7. ここでキスして。/木村カエラ
ドラマ『カルテット』に死ぬほどハマっていた時期がある。(本当に死ぬ気でハマっていた。放映終了から約一年三か月が経った今でも、なうでハマり続けている。)
主題歌「おとなの掟」は、作詞作曲が椎名林檎、歌唱がメインキャストの松たか子・満島ひかり・松田龍平・高橋一生の四人という、ものすごく素晴らしい面子によって作られた、ものすごく素晴らしい楽曲だ。
ここまでは前置き。
木村カエラの歌う「ここでキスして。」を聴くと、「おとなの掟」をはじめて聴いた友人の感想を思い出す。
年季の入った林檎フリークである友人曰く「メロディもアレンジも歌詞もすべて林檎なのに歌声だけが林檎じゃないから、脳みそが混乱して楽しい」だそうだ。
そう、メロディもアレンジも歌詞もすべて椎名林檎なのに、歌声だけが木村カエラ!
これを聴いていると脳みそが混乱してほんとうに楽しい。
原曲での椎名林檎の声はまだ少し幼い。なんというか上目づかいで見つめて甘えるみたいに歌うようなところがあって、それが妙に色っぽくてドキドキしてしまうのだけど、木村カエラは意外と竹を割ったようにキッパリ歌うから、そのギャップがとってもいい。
椎名林檎が原曲で仕込んでいる細かい技巧的な歌い回しをほぼガン無視して、ストレートに歌い直しているところも好き。
以上、前編終わり。
後編に続く!前編で既に4500字超え!
搔っ捌かれるつもりの腹
もっとやれるはずだった、こんなものができあがるはずじゃなかった、うまくできると思ってた。
自分の作ったものをじろじろと眺め回して、過去の行いを反芻して、気がつくとそんなことばかり考えている。人様をああでもないこうでもないと分析したがる不躾な視線は見事に自分に跳ね返って、かえってこちら側に深く突き刺さる。なまじ自身のことであるから、思いつく弱点など挙げていけばキリがあるはずもなく、しかもそのあげつらい方にはまったく容赦がない。流行りが分かってない。歴史を知らない。稚拙である。へたである。センスに乏しい。行動が伴っていない。志だけ馬鹿みたいに高い。
そのようにして生傷を抉りながら、今までの自分をひととおり否定しつくす。そして最後には、できあがったものをなかったことにする。私が掲げるべき看板がこんなに傷だらけだなんて冗談じゃない。こんなものは私の武器にならない。搔っ捌き放題の腹のうちを迂闊に見せてみろ、すぐにやられてしまう。だから、いつも、次こそは、と思う。今より流行りが分かれば、今より歴史を知れば、今より老練すれば、今よりうまくなれば、今よりセンスを磨けば、今より行動すれば、今より身の丈に合った志を持てば、次こそ、次こそは、心から満足のゆくものができあがるはずなのだ。
至らなかったものをなかったことにし続けて、うまくやれなかった自分を自分から排除し続けて、手元に残ったのは、次こそは、という口癖ひとつだけだった。無責任に未来に希望を託して、自分の伸び代をただ夢想することは、あまりにも心地がいい。それはもう、自身の未熟さをバサバサと切り捨てていく痛みにすらうっとりしてしまうほどに。
できあがったものをなかったことにできるのは、いさぎよいからではなかった。全力を尽くしてまで作ったのが「こんなもの」なのだと認める勇気がなかったからだ。あるいは「こんなもの」が自分の全力であると人に知られるのが死ぬほど怖かったからだ。百を作りあげる道筋がどんなに明瞭に見えていても、できたものが六十ならば、持っている力がそもそも六十しかなかったに他ならない。四十はどこかへ消えてしまったのではなくて多く見積もっていたなにかなのであった。それは矜持であったり、過信であったり、憧れの人への同一視であったり、見通しの甘さであったり、若気であったりするのだ、というようなことにふと、そしてやっと思い至ったのはつい三ヶ月ほど前のこと。
正直に、しんっっっっっっっっど!と思った。と同時に、どこかすがすがしい諦めのようなものがすとんと胸に落ちもした。百あったはずのになぜかいつも四十なくなるから歯痒くなるのであって、手元にある六十をすべて使って六十を作っているなら(二十とか十とか三とかになってしまうときも多々あるのだけど)、それは素晴らしく筋の通った話だ。
作ろう、と思った。
傷だらけの看板を背負って立とう。なまくらだとしても自作の武器で戦おう。搔っ捌かれる覚悟で腹のうちをすべて晒そう。どうせ出し惜しみする余裕もない。こんなものが私のフルパワーです。
あとはまあ、どうぞお好きになさって!
【今日のセルフお題「ニューアルバム発売間近」】
岩崎宏美は私が守る
はじめに
音楽やってますなどと言っているわりには、音楽に関することを一度も書いていないことに気づいたので、今回は岩崎宏美さんについて書くことにした。
雑すぎる言い方で申し訳ないが、歌謡曲が好きである。
特に誰からの影響というわけでもなく昔から好きなので、なにか琴線に触れるものがあるんだろう。
たまに『夜へ急ぐ人(ちあきなおみ)』とか『フライディ・チャイナタウン(泰葉)』とかを聞いては、じいん……となっている。
五年ほど前、『思秋期』の素晴らしさに改めて感じ入り、TSUTAYAで『岩崎宏美 ゴールデン☆ベスト』というアルバムを借りた。
このアルバムの16曲目に収録されている、『春おぼろ』。
イントロのリフに撃ち抜かれた。
私は、この曲がとても好きだ。間違いなく、とても好きなのだ。
が、何度聞いても、何度考えても、どうしても、どうしても、この曲に物申したい気持ちが抑えきれない!
それでは、岩崎宏美への熱い想い、聞いてください。
『春おぼろ』への勘違い
ものすごくざっくり言うと、『春おぼろ』は「父親に反対されたため、恋人との結婚が許されず、悲しい」といったような内容の歌である。
さて、私が悶々としているのは、二番のサビの歌詞、たった一行について。
父親に追い返され、帰路で黙り込んでしまった恋人に対してのモノローグがこれだ。
「怒っているでしょ ぶってもいいのよ」
五年前の私は、思った。
なぜ、なぜなの宏美!!!!?!?
なぜ恋人を盾にするの!!!??!?
なぜ己の拳で戦わないの!!!?!???!!?
と。
たぶん大半の方が「こいつは何を言っているのか?」と思っているでしょうから、解説をします。
つまり、私は「怒っているでしょ ぶってもいいのよ(父を)」と解釈したのです。
じゃあ宏美、あなたの怒りや悲しみはいったいどこへ行くの!??
ぶつのなら、あなたが、自分の拳で、お父さまをぶちなさい!!!!!
そして、あなた自身の手で結婚を勝ち取りなさい!!!!!!
その後もう脳内で宏美を鼓舞することしか考えられなくなり、数週間悩んだ末に、やっと自分の誤解に気づいた。
もしかして、これ、「ぶってもいいのよ(私を)」ってことなんじゃないのか……
またしても私は煩悶した。
どうしてなの宏美!!!!!どうして彼があなたをぶつの!!??
そんなことでぶつような人間と結婚しようとしているの!!!????!?
もし彼があなたをぶったら、十倍にしてぶちかえしなさい!!!!
なに、できない?
じゃあいい、私がやる!!!!!!!!
宏美は、私が守る!!!!!!!!!
こうして、私は宏美のモンスターペアレントになる。
なぜ私が先んじて彼に暴力を振るう必要があるのだろう。
それはまごうことなき犯罪だ。
分かっている。
分かっているのに、宏美のことが心配でたまらない。
ねえ宏美、なにがあなたにそんなことを言わせたの?
万が一にでもあなたをぶつかもしれないような人と結婚してほしくないの、彼にならぶたれてもいいだなんて言うあなたを見ているのはとてもつらいのよ!
おねがい、どうか幸せになって、彼のためじゃなく、自分のために幸せになって!
きっと、きっとよ宏美……!
なにが宏美にそんなことを言わせたか
以上が、『春おぼろ』をめぐる、私と宏美の因縁のすべてである。
この曲を聞くと、どうも岩崎さんとの距離感が完全におかしくなる。
後追いかつ超ライトなただのファンという立ち位置から、血の涙を流しながら両肩を掴んで揺さぶるくらいの超近距離にジャンプしてしまう。
改めて問おう。
宏美に「ぶってもいい」だなんて言わせたのは、いったいなんなのだ。
作詞は、山上路夫さん。
合唱曲で有名な『翼をください』や、『夜明けのスキャット』、『瀬戸の花嫁』などを手掛けられた、ものすごい方である。
では、山上さんが「ぶってもいいのよ」を言わせたのか?
歌詞を書いた張本人なのだからそれはその通りなのだが、それでは答えとして不十分だ。
山上さんはプロの作詞家として、求められる言葉を差し出したのだろう。
16枚目のシングル『春おぼろ』が発売されたのは、1979年2月5日。
岩崎さんは1958年11月生まれだそうなので、リリース当時は21歳。
※「岩崎宏美 オフィシャルサイト」(http://www.hiroring.com/)より
岩崎さんが「ぶってもいいのよ」と歌ったのは、21歳の彼女を通して「ぶってもいいのよ」的な女性像を打ち出すとウケたから、なのだろう。
なので、宏美にそんなことを言わせたのは当時の社会ぜんぶと言っても過言ではない。
時代だねえ、と言ってしまえばそこで終わりの話ではあるのだけれど、私とてそんなことで黙るような人間ではない。
1979年だろうが2017年だろうが、宏美には幸せになってもらわなきゃ困る。
『春おぼろ』の宏美が、その後どうなったかは分からない。
が、「いや、ぶたれるのはだめでしょ……」くらいは思えるようになっていてほしいと切に願うばかりである。
おわりに
意外とまじめなところに着地してしまって、自分でも驚いている。
『春おぼろ』はこの映像がすてき!
岩崎さん、大好きです。
今更になって大言壮語すぎるタイトルが恥ずかしくなってきたけれど、しかたない!
好きな言葉にもいろいろある
なんでもないことのはずなのに聞かれるとけっこう戸惑う質問、というのがあって、それは「ご趣味は?」だったり「普段なに聞くの?」だったりするのだが、私の場合、「好きな言葉は?」がぶっちぎりのナンバーワンである。
ここで「焼肉!」「休暇!」「不労所得!」などと即答することができないのには、ちゃんと理由がある。
今、「焼肉」「休暇」「不労所得」を、手元の辞書(日本国語大辞典アプリ版)で引いてみた。
「牛・豚などの肉をあぶり、またはいため焼きにしたもの。」「ひま。職務から解放された自由な時間。」「働かないで得る収入。配当金、利子、地代など。」だそうだ。
読んでいるだけで、大量の小判が底に敷き詰められた菓子箱を越後屋に差し出されたときのお代官様みたいな顔になってしまう。
嫌いな要素がひとつもない。紛れもなく、「好き」に値する。
だが、私の「好きな言葉」に対するつまずきはその直後に訪れる。
「好きな言葉は?」「"不労所得"です!」
途端に不安になってくる。この回答で、本当にいいのだろうか。
私は、「不労所得」を「言葉」として真に愛していると言えるのだろうか。
例えば、「働かないで得る収入。配当金、利子、地代など。」を表す言葉が「skajisudk」と呼ばれる世界に生きていたなら、「好きな言葉は?」と問われた際には「skajisudk」と答えることとなる。
やはり、それではいけないのだ。
このように代替可能なものをお手軽に「好き」などと言うのは、言葉に対していささか不誠実な態度なのではないかとそわそわしてしまう。
要は、「不労所得」という言葉の持つ「意味」だけにしか着目できていないのに、それを「言葉として好き!」と言い切ることに抵抗感をおぼえるということである。
「好き」だというのなら、出来るかぎりさまざまな側面からその言葉を愛したい。
では、掛け値ない「好きな言葉」とは、いったいなんなのだ!
360°どこから見てもまるごと愛せる言葉に出会うため、私は考えた。
ある言葉を分解してみたとき、私は主に三つの構成要素を読み取っている。
「意味」「語感」「表記」である。
「不労所得」の持つ意味が好きであることは既に書いた。
では他の二つはどうだろう。
語感。
「フロウショトク」と発音したときの快感は、まあまあ。「フロー」と「ョ」にリズム感がある。だが、私としてはもっと弾けた音を期待したい。落ち着いた中堅どころというかんじ。
表記。
漢字四文字でまとまる言葉というのはとにかくキマるのでポイントは高い。漢字のチョイスも、直線と曲線のバランスがうまく取れているかんじ。ただ、いまいちあか抜けない気もしてきた。バランスはよいが、主張の強いやつがあまりいない。おきれいにまとまっている印象。
以上を鑑みて、「不労所得」を言葉としてまるごと愛せるか。
「"働かずに得る金"という素晴らしくエキサイティングな意味を持っておきながら、語感や表記には意外と刺激が少なく、いまひとつ楽しさに欠ける」ということで、まるごと愛するのはすこし難しいという結論に至った。
なんだか書いていて不労所得に申し訳なくなってきた。お前は悪くない。言葉としてのお前をまるごと愛する人もたくさんいるだろう。
でも私が求めているのはもっと鮮烈な刺激、そして目の覚めるような快感……!
というわけで、意味、語感、表記の三点において、とにかく一発で楽しくなれる言葉を探してみた。
検索してみたら、「モホロビチッチ不連続面」という言葉があるらしい。
これはずるい。やられた。
意味。
日本国語大辞典によれば、「地球の地殻とマントルとの境界面。深さは平均三三キロメートル。」だそうだ。
つまり、こういうことらしい。
私たちの立っているその足元から約33キロ地球の内部へ進んだところにある、境界線。なんとロマンの詰まっていることか!センターオブジアースみたい!
語感。
百点。はなまる。パーフェクト。まず「モホロビチッチ」からしてずるい。クロアチアの地震学者であったモホロビチッチさんの名を取ってこの名称だそうだが、「モホロビ」のそこはかとないラテン感、に続けて「チッチ」の素晴らしい躍動感、そして「フレンゾクメン」の日本語離れしたリズム感。語感の大盤振舞いである。
表記。
カタカナと漢字の混ぜ書き。その時点でずるい。楽しいに決まっている。
直線多めのスタイリッシュなカタカナが七文字も続き、次にどう来るかと思ったらまさか漢字四文字で締めてくるとは。前半との画数差のギャップを狙ったのか。うまい。実によくできている。
意味、語感、表記、どれを取っても申し分ない。
出会えたのだ、360°どこからでも、まるごと、真に愛することのできる言葉に!
これからは、好きな言葉を聞かれても戸惑ったりしない。胸を張って「モホロビチッチ不連続面!」と答えられる。
素晴らしい収穫だった。
収穫といえば、「ふ」と「も」を入力した際、ノートパソコンが真っ先に「不労所得」と「モホロビチッチ不連続面」をサジェストしてくれるようにもなった。
とても便利である(便利ではない)。