ライブで乳首を見せびらかしたい
ライブで乳首を見せびらかしたい。
※本業はシンガーソングライターです。ソウルフルな感じのピアノ弾き語りをしております。
露出癖ではない。
ワハハ本舗でもない。
むしろ、反射的に「露出癖?」「ワハハ本舗?」と思ったあなた、あなたにこそ、この思いを届けたい。
私は、強固な意志でもって、私の乳首を見せびらかしたいのだから。
私が乳首を見せびらかしたくなるまで
私が心から尊敬し、愛してやまない、SCOOBIE DOという四人組ファンクロックバンドがいる。
(http://skream.jp/interview/2017/10/scoobie_do.phpより)
彼らはやばい。最高である。
彼らのなにがやばくて最高かと言うのを真剣に綴ると三日くらいかかるので、断腸の思いでひとつに絞る。
ライブパフォーマンスである。
素晴らしく盤石な演奏技術を存分に振りまきながら、踊る、暴れる、魅せる、そして、観客を煽りに煽る!
そのさまが、クールでアツくて、豪快で繊細で、硬派でエロくて、たまらなくかっこいい。
というただのファンのダイレクトマーケティングはさておき、ひとまず次の動画の2:33〜2:45あたりをご覧いただきたい。
(このライブ映像は数ある最高のライブ映像の中でも特に最高のものなので、本当は最初から最後までご覧いただきたい。もっと言うなら、生のライブを最初から最後までご覧いただきたい。)
(※『FUJI ROCK FESTIVAL2015』より)
「真夜中のダンスホール」、ライブでは定番中の定番曲である。
忙しい方のために、その約十秒の間に起こることを簡単にご説明しよう。
「けものだもの 今はむきだしのまま」とのフレーズを高らかに歌い上げるVo.コヤマシュウ氏が、第四ボタンまで※シャツを広げ、自身の乳首を誇らしげに露出させるのだ。
(※確認のためライブ鑑賞時に何度か注視したが、第四ボタンのときが比較的多い。)
2016年11月17日、東京は渋谷クラブクワトロにおいて、生まれてはじめてコヤマ氏の乳首を目の当たりにした私は、確信した。
「これだ」と。
これだ。
私がやりたかったのは、こういうのだ。
媚びでもシモでも下品なギャグでもない、人々が思わず歓声を上げてしまうような、自信たっぷりの圧倒的セクシーさに溢れたパフォーマンス。
やりたい。私も乳首を見せびらかして、人々から喝采を浴びたい。
そして妄想だけが無限に膨らむ。
両乳の乳輪部分に星型の銀紙を貼っておいて、曲の盛り上がりに合わせて服をはだけてゆく。
そして曲のクライマックス、一番盛り上がるそのときに、最高のシャウトと共に、一気に銀紙を引き剥がす!
スポットライトに煌々と照らされる両乳首と、それによって一層湧き上がるオーディエンス。
喝采を浴びるコヤマ氏を最前列で見つめながら、私は決意した。
「乳首、出していこう」と。
乳首を見せびらかす際の問題点
しかし、どれだけやりたいと思ったところで、実際に私がライブで乳首を見せびらかすのは非常に困難であるらしい。
「らしい」と妙に頼りない書き方なのは、「ライブで乳首出して会場をワーッて沸かせたいんだよね」と何となしに母に持ちかけた際、全力でドン引かれるまで、自身の乳首の露出にそんなに問題があるということに、まったく気づいていなかったからである。
ちなみに言及しておくと、私は幼い頃から、肌を露出させることについての羞恥心がまったくない。
更衣室に入るのを面倒がって平気で廊下で着替えるし、スカートを履き忘れてコンビニまで行ったこともあるし、法さえ許すならば暑い日は出来れば何も着たくない。裸でいい。実際、室内では年中ほとんど裸みたいな格好をしている。
無論、見たくない人に無理矢理自身の裸体を見せつけたいとは一言も言っていない。それは単なる性犯罪だ。
ただ、乳首というだけでそんなに禁忌みたいな扱いをされている状況が理解できない。
「見せたい人は見せたいときに見せる。(もちろん、見たくない/今見たい気分じゃない人にむやみに見せたりしない。またもちろん、見せたくないときには見せなくてよい。)
見せたくない人は見せたくないから見せない。
見たい/別に見ても嫌じゃない人は見せたい人のを見る。
見たくない人は見たくないので見る筋合いはない。」
そのルールさえ守ることができているのならば、私が人前で乳首を晒すことにさして問題があるとは思えない。
必死でやめなさいと言う母に、私は上記のような意見を延々と訴えた。(クソめんどくさい娘)
私の大演説を聞き遂げた母は、果たして、こう言ったのだった。
「いや、あんた一応女の子だから……」
女の乳首というだけで
めんどくさい娘、ついに爆発した。
最初に言っておくが、母はなにも悪くない。
ここからは私の単なる演説である。聞いてください。
女の乳首が、なんなのですか!?!!!!??????!??
若い女の乳首が、一体なんだというのですか!!???????!!!!!!!!
確かに私は24歳で、女の体を持つ者としてこの世に生きている。
生きてはいるが。
そもそも、女の乳首というだけでなぜ隠さなければいけないことになっているのだろうか。いや確かにあまり丈夫な部位ではないから、防御のためになにかしらプロテクトするものが必要だとは思うけれども、それは男性でも同じではないか?
人間ならば皆、いやまだ足りない、哺乳類の乳首ならば同じではないか?
私は、私の体に「若い女の乳首」が備わっていることが煩わしい。
正確に言うと、本来「母乳を出す」程度の機能しかない人体の一器官に、外界からさまざまな意味づけがされてしまっていることが、とても煩わしい。
私だって、やりたいのだ。
野外バーベキューのときに「あちいな〜!」って言いながらその辺にTシャツを脱ぎ捨ててみたい。もちろんTシャツの下には何も着ていない。
レジャーシートの上にラッシュガードを脱ぎ捨てて、海パン一丁で真夏の浜辺を海に向かって駆けて行きたい。(とにかく夏になにかを脱ぎ捨てたがりがち)
「若い女の体」を持つ者は、こういうことができない。
いや、別にやろうと思えばできるのだけど、「はしたない」「みっともない」「欲求不満なの?」「露出狂なの?」等々さまざまな批判や疑問が矢継ぎ早に飛んでくることが用意に想像できすぎて、やらないという選択をせざるを得ない。
もちろん私とて妙齢なので、乳首を「母乳を出す」以外の(※エロ的な)用途で使うときもある。
あるけども、「私の今の乳首はエロいものとする」と脳が判断を下したときだけ乳首がエロいものになるのであって、「エロい乳首」がもともと体に付いているわけではない。
私は、私の乳首を、「赤ちゃんに母乳をあげるためのもの」「エロいもの」「隠すべきもの」などという外付けの意味から解き放ちたい。
我が乳首よ、我が手中に。
テイク・バック・ザ・乳首……「乳首をとりもどせ!!」
乳首パフォーマンスに焦がれる真の理由
そこでやっと気がついた。
私は、コヤマ氏の乳首パフォーマンスになぜあれほどまで惹きつけられたのか。
コヤマ氏は、自分の乳首をパーフェクトに自身の支配下に置いている。
単に人体の一器官として扱うも、セクシーな舞台演出の道具として扱うも自由自在。
そして、見せるも見せぬもコヤマ氏の采配次第。
コヤマ氏の乳首は、所有者たるコヤマ氏だけのものなのだ。
「俺のからだは俺のものである」。
コヤマ氏から堂々と放たれるそのメッセージがあまりにも眩しく、そしてあまりにも羨ましかった。
「私のからだは私のものである」。
言わずもがなの当然のことなのだが、私の発するメッセージはコヤマ氏のそれと比べて、どうしても弱い。弱いのだ。そのことが悔しい。
ならば私は考えたい。
我が手に乳首をとりもどす方法……つまり、女が乳首を出したくらいでガタガタ言われないような世界を少しずつでも作っていく方法を。
まずは、「私のからだは私のものである」をいつも胸に留めておくこと。主張する機会があればきちんと声に出して主張しておくこと。自分の好きな格好をするのをためらわないこと。
演者としては、日々のステージを媚びず・おもねらず・堂々とこなしていくこと。弾けたパフォーマンスを「面白いね」と思ってくれる人たちが増えるまで諦めないこと。もちろん地道に実力とパフォーマンスに磨きをかけていくこと。
これらがもしなんとか上手いこといったあかつきには、無謀オブ無謀な畏れ多い夢ではあるが、いつかスクービードゥーの皆様と同じステージに立ち、コヤマ氏と並んで乳首を見せびらかして喝采を浴びたいと思う。
(言うだけならタダ……!)
なのでどうか皆様、私がいつかライブで乳首をバーンと出した際には、是非ドン引きせずに「フゥーーーーーーーーーーー!!」と声をあげてくだされば幸いです。
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11/7(水)21:56 追記:
http://www.scoobie-do.com/news/13072.php
本日11/7より始まるSCOOBIE DOツアー「スクービーとスクービー」、ひとまず現時点で本日の千葉、そして名古屋・東京の合わせて三公演行くことが決定しています。
千葉ルックを愛し!!!!!!!!!千葉ルックに愛されました!!!!!!!!!!!!!!!!!サイコー!!!!!!!!!!!!