つにてんてん

普段は歌うたいです。文章も書きます。

搔っ捌かれるつもりの腹

 もっとやれるはずだった、こんなものができあがるはずじゃなかった、うまくできると思ってた。

 自分の作ったものをじろじろと眺め回して、過去の行いを反芻して、気がつくとそんなことばかり考えている。人様をああでもないこうでもないと分析したがる不躾な視線は見事に自分に跳ね返って、かえってこちら側に深く突き刺さる。なまじ自身のことであるから、思いつく弱点など挙げていけばキリがあるはずもなく、しかもそのあげつらい方にはまったく容赦がない。流行りが分かってない。歴史を知らない。稚拙である。へたである。センスに乏しい。行動が伴っていない。志だけ馬鹿みたいに高い。

 そのようにして生傷を抉りながら、今までの自分をひととおり否定しつくす。そして最後には、できあがったものをなかったことにする。私が掲げるべき看板がこんなに傷だらけだなんて冗談じゃない。こんなものは私の武器にならない。搔っ捌き放題の腹のうちを迂闊に見せてみろ、すぐにやられてしまう。だから、いつも、次こそは、と思う。今より流行りが分かれば、今より歴史を知れば、今より老練すれば、今よりうまくなれば、今よりセンスを磨けば、今より行動すれば、今より身の丈に合った志を持てば、次こそ、次こそは、心から満足のゆくものができあがるはずなのだ。

 至らなかったものをなかったことにし続けて、うまくやれなかった自分を自分から排除し続けて、手元に残ったのは、次こそは、という口癖ひとつだけだった。無責任に未来に希望を託して、自分の伸び代をただ夢想することは、あまりにも心地がいい。それはもう、自身の未熟さをバサバサと切り捨てていく痛みにすらうっとりしてしまうほどに。

 できあがったものをなかったことにできるのは、いさぎよいからではなかった。全力を尽くしてまで作ったのが「こんなもの」なのだと認める勇気がなかったからだ。あるいは「こんなもの」が自分の全力であると人に知られるのが死ぬほど怖かったからだ。百を作りあげる道筋がどんなに明瞭に見えていても、できたものが六十ならば、持っている力がそもそも六十しかなかったに他ならない。四十はどこかへ消えてしまったのではなくて多く見積もっていたなにかなのであった。それは矜持であったり、過信であったり、憧れの人への同一視であったり、見通しの甘さであったり、若気であったりするのだ、というようなことにふと、そしてやっと思い至ったのはつい三ヶ月ほど前のこと。

 正直に、しんっっっっっっっっど!と思った。と同時に、どこかすがすがしい諦めのようなものがすとんと胸に落ちもした。百あったはずのになぜかいつも四十なくなるから歯痒くなるのであって、手元にある六十をすべて使って六十を作っているなら(二十とか十とか三とかになってしまうときも多々あるのだけど)、それは素晴らしく筋の通った話だ。

 作ろう、と思った。

 傷だらけの看板を背負って立とう。なまくらだとしても自作の武器で戦おう。搔っ捌かれる覚悟で腹のうちをすべて晒そう。どうせ出し惜しみする余裕もない。こんなものが私のフルパワーです。

 あとはまあ、どうぞお好きになさって!

 

【今日のセルフお題「ニューアルバム発売間近」】

 


夢井みづき/嗜好品(アルバムトレーラー)