「からあげ定食」をからあげから食べたい
定食屋さんで「からあげ定食」を頼んだとしよう。
とにかく、白米、汁物、漬物、主菜、小鉢などで構成されるいわゆる「定食」の提供を行っている店であればどこでもよい。
さて、ここで皆さまに質問です。
このからあげ定食、なにから手をつけますか。
まずは汁物を一口、さすがです。小鉢のおひたしから、ああたまりませんねえ。腹ペコなので米から、とてもすばらしい。
しかし、揚げたてでいちばんおいしい状態にある、からあげ定食のエースたるからあげに迷わずかぶりつく、そういう行為に、私はとてもとても憧れている。
単に憧れているというより、ほとんどうっとりじっとりした熱いまなざしを向けていると言っても過言ではない。
からあげ定食が目の前に置かれる。
そのとき、私は、からあげの乗っている大皿、に添えてあるくし切りのトマトからいく。あるいは千切りのキャベツから。
私だって、やってみたい。
ショートケーキを苺から。チャーシュー麺をチャーシューから。天ぷら付きざるそばをえび天から。握り十貫セットを大トロから。
か、かっこいい。かっこよすぎる。なんてワイルドなんだ。フュリオサ※ならきっとそうやってメシをかっ喰らう。
※映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード(2015・豪)』に登場する、めちゃくちゃ強くて腰砕けにかっこいい女大隊長。シャーリーズ・セロン様が演じている。
なのに、手を出せない。
添えつけの野菜、小鉢を片づけ、ご飯や汁物を数口、その後しばしの逡巡を経て、やっとのことで冷めはじめたからあげに箸を伸ばす。
お行儀のよい食べ方といえば聞こえはよいかもしれないが、目の前にある食物のなかで、最もおいしい状態にある、最もおいしい食べ物に手をつけることをためらっているようでは、人生のなかで、最もおいしい状態にある、最もおいしい瞬間を、私は、食べ損なっているのではないか。
というような不安に駆られたのが今年の春のこと。
「一口めにメインからむしゃむしゃいける人間にならねば」との決意を固めた。
あるときは、ついつい付けあわせのニンジンに伸びるフォークとナイフを厳しく律してハンバーグへと向け、またあるときは紅茶とケーキのセットをモンブランの栗から食べるなど、この半年間強、人知れず努力を続けてきた。
結果、現在どうなっているか。
結論から言うと、一周まわってふつうに付けあわせから食べている。
がんばってたんじゃないのか、ワイルドに憧れてたんじゃないのか、フュリオサになりたかったんじゃないのか、等の批判は甘んじて受けよう。
ただ実際、一口めにメインからむしゃむしゃいけるようになってみたところ、思わぬところに落とし穴があった。
からあげ定食を構成する品々に対して、私なりに(好き度、満足度、おいしさ、などの面から)スコアをつけるなら、次のようになる。
からあげを100として、
・白米…67
・汁物…56
・漬物…38
・小鉢…83
・付けあわせ…25
このような面子で、いの一番にスコア100のからあげを食べ尽くしてしまった場合、あとに残るのは、67の白米や56の汁物、せいぜいが83の小鉢である。
ましてや、高スコア順に食べていって最後に25の付けあわせであるくし切りトマトや千切りキャベツのみが皿に乗っている状態の、この悲しいまでのそそらなさよ!
例えるなら、音楽フェスのオープニングアクトに東京スカパラダイスオーケストラが出演してしまったようなかんじ。または、「ゴッホ展」に行ってみたら、展示室に入ってすぐ「ひまわり(本物)」が展示されているようなかんじ。
次が出番のアーティストは演奏しづらいことこのうえないだろうし、それ以降の展示作品である素描や日記などはたぶんまったく頭に入ってこない。
要は、「からあげが待ってる!」というわくわく感でもって食べることへの推進力を持続させ、自分なりに満足度の高い食事を完遂していたのだ。
ワイルドっぽくなった気がするがそそられない食事、臆病でつまらない気がするが満足できる食事、そのふたつを天秤にかけたとき、私は、迷った末に、後者を取った。
というわけで、これからもしばらくからあげは定食の最後に食べます。
しかし、ここまで考えておいてなんなのですが、「ワイルド」ってたぶん「からあげからいくこと」ではなくて「順番を気にせず食べたいように食べる」ということだったんじゃないかな……
そもそも「からあげ定食を食べることにおけるワイルドさ」について半年間熟考している時点で、ワイルドとはほとんど対極の場所に立っている。ナイーブ極まりない。
ああ……でもやっぱりからあげからいきたい……さも今までずっとそうやってきたような顔でからあげからいってみたい……でもおいしく完食できないのはいやだ……
たかがからあげ定食に身を引き裂かれるような思いである。
フュリオサ大隊長への道のりは険しい。